2011年03月12日 15:00   福島第一原発の事故以前

Juno

福島第一原発の事故後、すぐに「これは大変なことになった」と思ったのは、事故以前から原発のことを気にかけていたことが大きいです。

遡ること30年余り、1980年に、私の出身県の高知で窪川原発の開発が話題になっていました。当時は、ニュースや子供向けの本などで、「石油は、あと○○年で無くなる」、「地球の人口がこのまま増え続けたら大変なことになる」という情報が流れていました。そして、このことを私も、科学的な裏付けのある「事実」だと思い込んでいました。

小学生だった私は、同年代の従兄と、「どっか(自分達と関係のないところ)に地震でも起きて、地球の人口が半分になったらいいのに」という、不謹慎な話をしていました。また、原発を安全と言いながら、高知のような田舎につくろうとすることに不信感を覚え、「安全なら東京につくったらいいのに」みたいな話もしていました。安全だけど都会にはつくらないという原発に対する考え方のおかしさは、小学生でも分かることです。都会にはつくらない、イコール危険性があるという理解のまま大人になりました。

趣味や仕事でものづくりに関わり、「どんなものでも壊れる」、「設計が悪いとより簡単に壊れる」という前提で考えるようになったことも大きいです。20代に約5年半、競技用の自転車をつくる仕事に関わりました。競技など、極限状態での使用を前提としたものに必要以上の強度(重量増につながる)を持たせるのは、はじめから勝つことをあきらめているようなものです。当時の社長が「うちの(競技用)フレームは、今まで一度も(金属疲労で)壊れたことがない」という主旨の発言をしていました。そのことを聞いたときは、競技に適さない過剰強度(必要以上に重く競技に不利)になっているか、たまたま今までそうだったことを、これからも起こりえないと希望的予測を述べているだけで、科学的な思考の持ち主のすることではないと思いました。そして、社長の発言を聞いてから何ヶ月も経たないうちに、「フレームに(金属疲労による)ヒビが入った」というお客さんがやってきました。壊れないでほしいという希望は、しばしば簡単に裏切られます。壊れたあとで設計を改めることはできますが、そうしたところで、今後は壊れないなどという希望は、耐久性に寄与しません。壊れるかもしれないという前提で、できることを積み重ねてゆくしかありません。

20代前半に高知から東京に移り、そして、30代前半に神奈川に居を移してからは、浜岡原発の存在が気になりだしました。この頃には、原発の事故隠しの情報もあきらかになっていました。子供の頃に信じていた科学的予測(とされていたもの)の多くが外れ、TVや新聞、本やネットで目にする情報に対して、懐疑的な立場を忘れずに接するようになりました。

もともと心配性で、気になることは調べないと気がすまないたちなので、原発関連のサイトなどに多数目を通しました。有名どころでは、故、平井憲夫氏の原発がどんなものか知ってほしいストップ!浜岡原発などがあります。また、どのサイトだったかは失念しましたが、加圧水型原子炉の配管に起きる減肉、それに伴う事故についての情報に目を通し、なんと危険なものを動かしているのだろうと思いました。

浜岡原発が活断層の真上にあることを知り、当時住んでいた伊勢原(神奈川県)の家との距離を把握してからは、あそこがいったら住めなくなる、いついくかも分からないから、将来は大丈夫なところに移りたいというようなことを、妻と話していました。

そして、浜岡原発の心配をしているうちに、先に福島第一原発が壊れてしまいました。

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